人間関係のトラブルがあると「この人、なんでこんな意地悪なんだろう」、「わざと嫌がらせしてるのかな?」などと思ってしまうことがある。

僕はとても短気な性格なので、相手が自分の期待していたものと違う行動をとると、すぐこのように考えイライラしてしまう。

短気は損気、とはよく言ったものだが、それでも短気を治す、ということはなかなか難しいものである。そんな時、性善説という考えに出会った。

この記事では、僕自身が性善説で考え行動した結果、ハッピーになったという実体験を紹介したいと思う。

性善説とは

性善説とは、すごく簡単に言ってしまうと「人間の本質は善であって、本質が悪という人はいない」という考え方のことである。じゃあ、世の中にいる犯罪者は? とか、生まれた時はそうかもしれないけど、環境によって、本質が悪になることだってあるんじゃないの? とか思うかもしれないが、ここで倫理学とかを議論するつもりはないので、シンプルにそういう考えなのだな、と思っておいてほしい。

つまり性善説で考える、というのは、たとえ自分にとって好ましくない人間であっても、本質は悪い奴じゃないんだよ、きっと何か事情があってのことなんだよ、と思うようにすることをいう(と、ここでは定義する)。

性善説との出会い

その日、僕は以前勤めていた会社の上司であるAさんと飲みに行っていた。Aさんは僕の人生の中で最も尊敬する人物の一人だ。そして、僕だけでなく誰からも好かれ、仕事の面においても大変優秀な人である。

どうしてAさんはこんなに人望厚いのだろう。その秘密を知りたくて、ストレートに聞いてみた。最初は謙遜して、冗談を言うなど誤魔化していたが、ふとつぶやくようにこう言った。

「多分、性善説で考えてるんだろうね。」

僕は、Aさんの数あるエピソードの中で、特に印象深く残っている話を思い出した。それは、Aさんが、顧客にキレてしまう社員 Bの指導面談を行った際の話である。その社員は以前からキレる、モノにあたる、といった問題行動があり、大変手をやいていた。こうした行動は、サービス業として失格だが、当時、ただちに解雇にできるほどの事由とは判断されなかった。

面談の日、Bは指導を受けている立場にもかかわらず、Aさんに食ってかかった。「あの顧客が悪い」、「顧客は俺のことをなめている」、「こういう面談で指導されること自体ムカつく」と。

普通の上司ならこうした発言に反論するのが当たり前で、中には怒り出す人だっていると思う。それか諦めて面談を終了させることもあるだろう。けれど、Aさんはそのすべての発言を「そうかそうか、Bはそう思ったんだな」、「わかった、ムカついたんだな」とあたかもクレーム対応をするかのごとく受け止めの姿勢を貫いたのだ。

こうした態度にBも張り合う理由がなくなったのだろう。最終的にはAさんが諭し、解雇ではなく自主退職という形でこの件は終わった。Bは、誰と面談をしても聞き入れず、また辞めるつもりはないということを前から言っていたので、このように決着させることができたAさんは本当にスゴイと思った。

「Bだって、決して根が悪いやつじゃないと思うんだよ。」

僕がそのエピソードを話すと、Aさんは懐かしむように言った。この時僕は、性善説で考えると、相手をフラットに見ることができ、感情的になったり、イライラしたりしないのだな、ということを学んだ。

僕の抱えていた悩み

この考えと出会う前、僕は後輩たちとの人間関係に悩みを抱えていた。当時僕は、現場から離れて新人教育を専門に行っていたのだが、既存の教育による効果が薄いことから、ある施策を実行しようと考えていた。その施策は、現場にいる後輩たちの協力が必要不可欠だ。そのため事前に協力要請をしていたのだが、施策を実行しようとしたまさにその時、「そんな話は聞いていない」となってしまったのだ。

念のため過去のメールを確認すると、後輩含め関係者にはきちんとメールで上記を伝えていた。そのため、「今更そんなことを言われても困る」、「メールに目を通していないお前たちが悪い」と感情的に怒った。後輩たちは、メールをみていなかった非を認めたものの、今度は施策そのものにケチをつけ、やはり実行できない状態になってしまったのだった。

僕は後輩たちに対し、現場の忙しさを理由にただサボろうとしているだけだ、僕が施策による効果を自分の手柄ととしようとしていると思っているから、反対するのだ、と勝手に考えるようになった。こうした想いから感情的なやり取りが続き、後輩たちとの間に亀裂が入っていったのである。

性善説が救ってくれた

そんな時、たまたまAさんと飲みにいき、性善説という考えに出会った。しかし、性善説で考えるということはそう簡単ではない。Aさんは無意識にそれができるのだと思うが、とてもじゃないけど僕には無理だ。

とはいえ、せっかく良いと思える考えに出会ったのだから、無理矢理にでもそう考えることができれば何かが変わるような気がした。

僕は今回の件について改めて振り返った。後輩たちへのメール、後輩たちの行動、後輩たちを取り巻く環境、これらすべてから「何か事情があって反対しているのだ」、「あいつらもきっと良くしていきたいとは思ってくれている」このように性善説で考えてみた。すると、先ほどのような感情的な気持ちがスっと消え、自然と後輩たちと話し合わなければならない、という想いに至ったのだ。

その後、上長に間に入ってもらい、僕と後輩たちの話し合いの場が設けられた。僕は、とにかく何を言われても性善説で考え、後輩たちの言い分に耳を傾けよう、と臨むことにした。後輩たちの話を聞いてみると、やはり互いに思い違いがあることがわかってきた。そして自分にも反省すべきところがいくつもあったことに気づかされ、この点は素直に謝ることにした。

後輩たちの話を聞いた後、改めて僕は施策の目的や、それによる効果、これをするためには現場側の協力が必要不可欠であることを訴えた。すると、これまでとにかく反対という立場だった後輩たちが、「そういうことならやってみましょう」と受け入れてくれたのだ。正直、この話し合いは嫌悪になった人間関係を修復することが目的であったため、施策の話が進むことまでは考えていなかった。

性善説がもたらしたもの

話し合いの後すぐ、施策が実行された。僕は細かなことでも積極的に現場へ出向き、互いの意見を尊重し合いながら施策を進めていった。時には納得できないこともあったが、性善説で考え、常にフラットな状態で相手の行動をみるよう心がけることにした。

それから数ヶ月、施策は僕の考えた通りの効果を上げることができた。上長からも高く評価され、今では単なる施策ではなく、それが教育方法のひとつとして認められるまでになった。もちろん、それだけではない。後輩たちとの関係も良好になり、以前より絆も深まったのだ。

まとめ

僕は、相変わらず感情的になりやすく、すぐにイライラしてしまう。しかし、前とは違うのは、性善説で考えることで冷静に、客観的に物事を見極めることができることを知ったということである。これを知っているのと知らないのは大きな違いだと思う。

性善説を無意識で考えることはまだまだ出来ないが、意識的にそのように考える、切り替えスイッチのようにして今でも使っている。僕のように人間関係の悩みを抱えている方は、ぜひ性善説を前提にしてから、物事を考えてみるといいかもしれない。